美術茶論看板

デジタル時代のオリジナル1

西遊記では、孫悟空が自分の毛を抜き、フッと吹くと、毛の一本一本が孫悟空の分身になりました。
孫悟空の場合、オリジナルとコピーの関係は主従関係であり、女王蜂と働き蜂のようなものでしたが、単細胞性物の分裂では、どちらもオリジナルです。
 さて、あなたの見ている、このページはオリジナルでしょうか?コピーなのでしょうか?

オリジナルとコピーの関係/コピー技術の進歩

同じものを大勢で所有したい、使い終わったり無くなっても、又、同じものを使いたい。ものや存在に対する人間の欲求は、芸術や技術を進化させてきました。
しかし、技術の進歩は、「もの」を「物理的な物」と「情報としての物」に分離させ、ほとんどの人間たちが気づかないままに、それぞれに別々の道を歩ませようとしています。
オリジナル コピー
オリジナルとコピーは異なる
コピーはオリジナルを想起する記号であれば質は問われませんでした。記号の一部は、別の道を歩み文字へ進化します。
コピーはオリジナルより劣る
似せることへのこだわりは、本物と偽物の距離を益々遠ざけます。コピーはしょせん「コピー」でした。
コピーはオリジナルにほぼ等しい
デジタル情報は、オリジナルとコピーは全く同じものです。人間の思考と社会の構造は、まだこの事実に対応出来ずにいます。
コピーはオリジナルより優れている
デジタル情報は、現実の世界に再現するとき元のデータより、悪くもなれば良くもなります。それを判断するのは、人間の精神であり情報量や物理的特性ではありません。
オリジナル、コピーという概念は、人間の精神の中にあります。それは需要と供給の関係から生まれた価値と、「もの」に付帯する歴史の織りなす概念ですが、「もの」そのものにはありません。
自然界に転がっている「石」が偶然人間の目にとまり、加工され誰かの持ち物になった為に、何億ドルもの価値がある「宝石」と呼ばれたとしても、物理的には特殊なものではないのです。
絵画等の場合は、そのものが自然界のコピーにすぎません。 絵画の価値は、見る者の「精神への働きかけ」と、「歴史」に集約されますが、日本では「歴史」だけにお金を払う人が多いようです。その歴史も作られたものが多く、それらは「贋作」と呼ばれていますが、始めから創作ストーリーとして認知されていれば、ストーリーの一部として受け入れられるケースもあります。キャラクターや映画等の商品が、その例にあたります。
これらの創作物は、量産され「コピー」が人々の手に渡るのですが、音楽のようにデジタル情報が標準となっているものは、従来の価値観では評価ができません。特に著作権の解釈と、権利の行使手段が旧来のシステムでは対応できないのです。この問題は「絵」や「写真」といった「ビジュアルイメージ」の世界でも全く同じです。
音楽の世界が先に問題になっているのは、デジタル情報の再生装置の価格と、普及数量の問題に過ぎません。視覚器官は、聴覚器官の7000倍の情報量を処理できるため、再生装置も複雑でコストがかかりますが、生産技術はすでにこの問題を解決しつつあります。

通信コストと、画像処理装置のコストや普及率が、閾値を越えたとき、社会の変化に「ビジュアルイメージ」の作者たちは対応できるのでしょうか?また、技術者たちは明確なビジョンを持っているのでしょうか?流通や販売のシステムはどう変わるのでしょうか?どのような変化が訪れるのでしょうか?

この項目は次回デジタル時代のオリジナル2に続きます。